日吉の森とは

日吉の森は、3つのパートで構成されています。

東京に隣接したこの港北の地、日吉・下田町はその中心部に鎌倉道が通り、かつて農村地帯として多くの農作物を生産し、豊かな緑地を持つ『里』でした。しかし昨今の都市化に伴う開発の結果、東急東横線を中心とした地域では、常に住みたい町の上位に位置するベットタウンとなった反面、土地価格の上昇や人口の増加をもたらし、結果として多くの緑地が失われ、かつての文化や風習が失われる結果を生じさせました。
しかしながら、田邊家においては現在でもなお、旧家の姿をとどめ、150年(2014年現在)に亘り使用されてきた家屋敷・土蔵・残された民芸品・庭・森・100年を越える金木犀、野生のシラカシ群、ヤブツバキなどが残り、東側の下田神社、西側の真福寺と一帯となり、この地に残った最後の鎮守の森の姿を見せています。

日吉の森外観


これらの現存する緑地や収集物を用い、地域社会において、郷土に対する親しみや、かつての失われつつある風習や慣習などを海外の異文化と共にもう一度認識し、民族の文化や郷土に対する理解と創造をもって、人間の本質的な豊かさや繋がりを後世に伝えて行きたいと考え、この財団を設立するに至りました。
当美術館・財団の母体となった田邊家は屋号を長錠口(ながじょうぐち)と称しています。その歴史は江戸時代に遡り、関ヶ原の戦いに勝った徳川家康は江戸幕府を開く際、当家初代 大炊助に幕府直轄領(天領)三十石五人扶持と苗字帯刀を許し、現在の地(横浜市港北区)に定住させこの地の管理を任せました。その後、田邊家は菩提寺である駒が橋山眞福寺(現下田山真福寺)と氏神である熊野神社(現下田神社)の創建に尽力しました。


現在、敷地内に残る防空壕や土蔵、古井戸などを対象とし地元小学生が授業の一環として毎年訪れ、博学連携の一つとして、当時の生活や戦時体験を次世代に伝えています。
また、邸内に残る遊歩道や庄屋造りの邸宅などを散策・展示することで四季折々の風情を感じるとともに、昔ながらの里山風景と収蔵物との関連性が相互に高められ、エコミュージアム(環境と博物館が一体として展示を行う)として広域社会に貢献を行います。

土蔵築300年を超える土蔵